原発事故の被害は小さくする見積に合理性があったとしても、脱原発の理由になる。

浪江町

(by paco)僕を含め、脱原発、エナジーシフトの立場に立つ人にとっては、原発事故の影響の大きさは説明するまでもなく重大としか言いようのないものだが、逆の立場に立つ人にとっては、実は「事故の結果はそれほど大きくない」という見解になる。

●なぜこのように真逆な見解になるのか。
●この見解の相違が何を意味するのか。

について、考えたい。

まず、順番を逆にして、下のイシューから考える。

■原発容認・脱原発の対立の中で、正当な判断が出来なくなること自体がリスクである。

「両者の見解の相違が何を意味するのか」と考えると、原発容認の立場から見れば、事故の被害やリスクが小さいほど、自らの立場を強固にできるということが背景になる。

当然、脱原発の立場では、事故の影響を大きく説明できた方が、有利になる。

このことから、事故の影響は中立的に判断されることが難しくなり、原発推進と脱原発の両方の立場からの綱引きの道具にされるという傾向があるのは間違いない。

ここで重要なことは、放射能の被害にあう人から見れば、原発に対する立場がどうかということは重要ではなく、放射能が本当に被害を与えるのか、がんやそのほかの健康被害を与えるのか、住み慣れた地を離れるだけの必然性があるのか、という点が問題になる。

事故の影響を受ける当事者がいちばん重要なのに、実はそこにフォーカルがあたりにくくなり、両方が自らの立場を強めるために、都合のいい情報を偏って集めてくる、ということが起きる。

実は、このような事態が起きることそのものが、ひとつの問題だ。いちばん情報を必要としている人に、いちばん重要な情報が届かなくなる。何が客観的、合理的な知見なのかがわからなくなる。

この問題は、実は、今回の福島の事故で始まったことではない。チェルノブイリでも、スリーマイルでも、同じことが起きてきた。放射能というのは人間が適切に扱うことがむずかしいという意見があるが、それは、実際に管理がむずかしいということだけでなく、影響ひとつとっても、放射性物質の等身大をつかむことがむずかしい、という点も含まれる。そもそも適切に判断が難しいものを、広く使うこと自体が、実は困難を増しているといえるのだ。

このような主張について、原発推進の立場から見ると、次のような反論が成り立つ。

「脱原発論者が箇条に危険を大きくいうことが、放射能の理解を難しくしているだけで、自分たち(原発推進の立場)で見れば、放射能にそれほどの危険はない、ということでじつにシンプルなのだ」と。

改めていうまでもないが、脱原発の立場では、真逆の主張になる。

いずれにしても等身大の認識には至れない。

という対立の事実を見れば、明らかなことはやはりひとつだけある。

「原発事故の影響(リスク)を正当に判断できないこと自体が、(不条理な)リスクである」

危険を避けると言うことから言えば、不条理なリスクなのである。

■因果関係が証明できないことそのものが、脱原発の理由だ。

では、なぜこのように真逆な見解になるのか。

どちらかが「ウソ」をいっているわけではなく、どちらが根拠に上げているデータも、実際にあるのだ。

つまり、影響や被害がどうなるのかについて、矛盾する情報が複数あり、矛盾が科学的に解消できていないのだ。

ざっくり言えば、たとえば、スリーマイル事故で放射能が漏れたが、周囲の住民には健康被害がほぼなかった。一方、チェルノブイリでは女性と子どもを中心に、甲状腺癌の被害は明確になっている(立場を越えて合意されている)。

では、どのような違いが両者を分けたのか。この点についての正確な見解はない。どちらも国家レベルで情報の公開を避けてきたからであり、特にチェルノブイリでは、事故当初にどのような被曝状況にあったのか、事故直後に避難した人たちであっても、その後、食べ物から内部被曝していることが原因なのか、因果関係の分析がほとんどされていないか、公表されていないのだ。

実際、チェルノブイリのある、旧ソ連、ウクライナ、ロシア、ベラルーシなどの国では、政府は甲状腺癌以外の一般市民の健康被害は、認めていない。そして、この見解に基づいて国連がまとめた正式な報告書でも、被害は非常に少ないと説明している。原発容認の代表的な論客である池田信夫氏の主張は、この点をひとつの論拠にしており、確かに一定の説得力がある。(→Click!

では、本当に、被害はこれだけに留まるのか?

映画「チェルノブイリ・ハート」を代表格に、これまで多くのジャーナリストによるレポート、現地の意思によるレポートでは、公式発表を遙かに超える数、そして長い年月にわたる被害が報告されている。しかしチェルノブイリ事故との因果関係を説明できないために、どこまでが事故の影響下は常に疑いがある。

この点については以前書いた記事に詳細がある。

チェルノブイリでは放射能の影響が広がり続けている

「20MSVでがん死亡が減少」は本当か?

同じ対立構造は、いくつもある。

放射線の健康被害は甲状腺などの癌だけではない。しばしば指摘されるのは、「ぶらぶら病」と呼ばれる、慢性的な免疫減退症状だ。

この症状は、広島・長崎の原爆被害だけでなく、チェルノブイリでも報告されている。また原発の定期点検などを担当する作業員にも見られる。

しかし、実際には原因が放射能だとは認識されておらず、裁判になっても因果関係は認定されない。(Click!)

放射線被害についての裁判や行政との交渉は、被害者が圧倒的に不利だという歴史がある。今回の福島事故では、政府は「責任を持つ」という発言はしているものの、それが実際に、言葉通りに行われることは期待できない。

この構造は、実は、前半の議論と同じ構造だ。実際に健康被害が出るかどうかにかかわらず、被害が出たとしても、それが保証されない可能性が非常に高いという特性があるがゆえに、つまり救済が期待できないがゆえに、救済されないような技術を使うのはやめた方がいい、というのは論理的な帰結になる。

別の例と比較するとわかりやすい。

原発推進の立場の人は、原発のリスクをしばしば自動車と比較する。あるいは、化学工場などと比較する。クルマもたくさん使えば、事故が起きて人的被害がたくさん出る。それでもみなクルマを乗っているじゃないか、と。しかし、上記の点を考えると、この指摘が正しくないことがわかる。

クルマも化学工場も、確かに事故は起き、被害は出る。しかし、どちらも被害の因果関係について、被害者がある程度納得できる因果関係の認定が行われ、それについての保証が期待できるのだ。

原発は、実際の危険とは別に、被害があった場合に、納得のいく保証が得られるとは期待できない。この点が、原発に反対する非常に大きな理由になる。そしてこの「保証が期待できない」ことの背景に、いわゆる「安全神話」があるのだ。安全だということに<なっている>から、被害も出ないことに<なっていて>、よって、保証をする必要もない。

僕自身は、チェルノブイリ事故後の状況を考えると、福島に残っている人たち、子供たちが、ほとんど影響なし、ですむとは思えない。そして、その被害を見て、人々は呆然とすることになるだろう。そして同時に、誰が見ても福島原発事故によるものなのに、それが認められずに、被害者が一方的に苦しむ姿を見ることになるだろう。日本という国は、過去、こういう姿をたくさん見てきた国なのだ。

原爆被害、公害被害、薬害エイズ……。

そうやって、「因果関係を認めずに被害者を放置し、苦しめてきた」歴史がある国で、今脱原発の立場をとらなければ、それは「せざる選択」によって未来の被害に荷担していることになるだろう(と、この点は中立的なロジックではなく、書いておく)。