【エネこみ】ミーティングでは「エネルギーの合意形成」の方法を明確化したい

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今年2012年、【エネこみ】リアルミーティングを毎月開いていく。

では、このミーティングで、僕はなにをしようとしているのか。改めて整理しておきたい。

【エネこみ】、特にリアルミーティングでやっていきたいことは、

(1)「市民が議論し、決める」ことを具体化する。
(2)今年、来年と予想される、「政治の季節」でよい選択ができる市民を増やす。

の2つだ。とはいえ、実際のところは、(1)を中心にやっていくことで、(2)は自動的に実現される、と考えている。

別の言い方をすれば、(1)は【エネこみ】の参加者にとっては、仮想的、思考実験的なのに対して(【エネこみ】の参加者が、実際に国や地域の合意形成に直接関わる可能性は少ない)、(2)は選挙での意思表示という形で、かならず関わることになる。

もう少し具体的に考えていこう。

■「市民が議論し、決める」ことを具体化する。

【エネこみ】の目的は、どこかの誰かがエネルギーの問題を議論して決め、その結果起きた事故の被害や賠償を、議論に参加していない「私たち」が背負うことになるという現状を、変えることにある。

エネルギーについて「市民が議論し、決める」を実現したい。

エネルギー・デモクラシーの実現であり、この場合のデモクラシーとは、多数決でコトが決まる「多数派工作」の国会的な民主主義ではなく、合意形成による決めごとの方法をさす。

エネルギー問題については、福島事故以前の方向感のまま進むという選択肢はほとんどなくなっている。つまり、何らかの「シフト」が必要になっている、と言うところまでは、政治・行政・市民・経済界ともに共有されてきている。しかし、では具体的にどのようにシフトするかについては、まったく合意できていない。

「エナジーシフト」自体は必然だが、どこにシフトするかは、まったく明かではない(共有できていない)。

ではどのように共有すればいいのか。これが「ポリティカルシフト」だ。これまでと同じような決め方ではなく、別の決め方に変えなければならない。そうしないと、シフトした結果についても、「議論に参加していないのに、結果だけ引き受けさせられる」という自体が、再びやってくる。

簡単に言えば、国会と官僚が「原発をこれからも使います」と(民主主義に基づく方法で)決めても、その結果つぎの原発事故が起きれば、また影響を引き受けるのは、決めごとに参加していない、市民なのだ。

政治、つまり社会の決めごとのしくみも、変える必要がある。

「自分たちで決めたのだから、自分たちで結果を引き受ける」

これが合意形成型のデモクラシーであり、その結果、エネルギーのありようがシフトされるような社会をめざしたい。

【エネこみ】が想定している、「エナジーシフト×ポリティカルシフト」である。

■「合意形成の方法」を具体的に構築する

合意形成の必要性、重要性がつかめたら、つぎに具体的にどのようにすれば、社会の合意形成が可能なのか、その方法論を考え、構築していくことだ。

一般的な市民感覚をベースにしながら、

◆議論の方法論
a.議論する場の設定はどのように行うべきか
b.そこにはどんなひとが参画すべきか
c.どのような内容を議論すべきか
d.意思決定の考え方はどうあるべきか、

◆議論のシミュレーション
e.そのような議論が行われたら、どのような議論になると想定されるか
f.そこでの結論はどうなると予想されるか
g.出た結論は、どのように社会の中で正当性を持つのか。受け入れられるのか。

といったことを考え、議論していくことになるだろう。

この議論を通じて、これからの日本の「社会の決めごと」の有りようが見えてくるだろう。

参加者は、こういった議論を理解することで、

●社会の合意形成は、困難なテーマであっても可能であること
●選挙など政治的選択で、適切な合意形成を主張している政党や候補者であるかどうかを判断できること

が期待できる。上記の目的の(1)(2)が実現できる。

■毎回違う参加者がリレー形式で知を繋いでいく

【エネこみ】でやっていきたいのは、このような意思決定の方法を、クローズドな限定されたメンバーでやることではない。【エネこみ】自身が開かれた意思決定の場であるべきだし、現実的なも問題として、メンバーを固定し、そのメンバーに必ず毎月参加して議論するようにコミットメントを求めることもできない。

毎月、違うメンバーがミーティングに集まることで、議論が振り出しに戻るリスクがあるがそれを防ぐために、毎回終了後に、議論の成果をまとめて、サイトに書いていく。また議論自体の音声録音を聞けるようにすることで、それ以前の議論に係わっていないメンバーが、「そのつぎ」を議論できるようにしていきたい。

もちろん、新メンバーが以前の議論に疑問出しする可能性もあるだろう。それを拒否するものではない。しかし、もし前の議論が、理性的に行われているとすれば、その議論は別のメンバーにも同意可能と考えられる。

なぜそう言えるのか。この議論は、【エネこみ】03で行った「観念論」の議論になるが、観念論とは、経験論と対(つい)になる哲学用語で、経験値より、人間の理性によって知ることのほうが優先する、という考え方だ。人間は誰もが共通して持つ理性があり、その理性によって理解すれば、経験してきたことが違っていても、万人が共通の理解に至ることが可能だ、とする考え方だ。合意形成には重要な考え方なので、文末に詳細な説明を加えておく。

観念論の立場に立てば、前回までの議論を詳細にたどれば、あとから参加したメンバーも同じ結論に到達することが期待できる。理性の能力は人間に共通で、それを使って考えれば(合理精神)、同じ結論に至ると期待できるからだ。

だとすれば、【エネこみ】リアルミーティングで、毎回メンバーが入れ替わったとしても、前回までの結論を共有できることになる。また、もし共有できないとしたら、それは理性による合理的な合意、ということ自体、否定されることになる。

というように理論づけた上で、【エネこみ】を運営していこうと考えている。

原発事故が起き、今も状況は楽観できない。「客観的にみて、原発を使い続けることには、合理性がない」と単純に主張してしまうこともできるし、多くの立つ原発の立場の人々が、そのような活動を続けている。僕も基本的にそういう立場を支持している。しかし僕自身は別のアプローチをしていきたいと考えている。「脱原発」という結論を主張するのではなく、原発を含めたエネルギー利用のあるべき姿を合意するという、デモクラティックなアプローチにこだわっていきたい。その結果、議論は、原発を肯定する立場になってしまうかもしれない。しかし、それが日本の社会の合意なら、それも受け入れる必要があるだろう。

ここで示したような【エネこみ】の趣旨に賛同いただける方にはぜひリアルミーティングに参加してほしい。多くの視点からこの問題をチェックできてこそ、合理的で精度の高い結論に至ることができし、それこそ、僕らの世代が、僕らの子供や孫、曾孫の世代に対して、誇れる活動になると思っている。

 


 

【観念論】
そもそも、人間がどのようにものごとを認識しているのか、ということについて深く考えたことがある人は、日本人には少ないだろう。認識論と呼ばれるこの分野は、哲学のもっとも主要なテーマのひとつだ。

日本人は、どちらかというと経験論的な理解をしていることが多い。生まれたときには何も知らない白紙の状態だが、赤ちゃんの時からさまざまな経験を積み、徐々に物事の理解を深めていき、世界を認識するという考え方だ。このような考え方は、イギリス、アメリカの哲学の典型的な主張で「経験論」と呼ばれる。

この考え方は一見正しそうに見えるが、大きな問題を抱えている。人間は個別的な存在であり、経験できることはみな違う。双子であっても、まったく同じ経験をするわけではない。にもかかわらず、人間が共通の認識をもてるのは、なぜだろうか?

僕が毎日使っているカップと、あなたが毎日使っているカップは、おなじものではない。同じようにデザインされ、工業的に作られたカップであっても(一見おなじものに見えるカップ)、おなじものはふたつとない。まして、僕は赤いカップを使い、あなたは白いカップを使っていても、そのどちらもお互いにカップと呼んで違和感なく互いのカップにコーヒーを注ぎあえるのは、なぜだろうか? 異なるカップなのに、同じカップだと認識できる能力が、人間にはもともと備わっていなければ、そのようなことは起きないだろう。こう考えてみると、カップというみてカップを使うという経験をする以前に、人間にはある物体をカップと認識する能力が備わっていると考えざるを得ない。これが人間の理性の作用だ。

実際、失語症の患者ではこのような理性の働きが機能しなくなり、僕の赤いカップとあなたの白いカップを、同じ「カップ」という呼び名で呼べなくなる。個別のものという理解になって、共通の名詞を当てはめられなくなるために、言葉がでなくなるのだ。

人間は、経験によってものごとを理解するという考えはこのようにして破綻する。経験以外の理性の働きを想定しなければ、人間がものごとを認識することはできない、と考えざるをえないのだ。

人間には理性があり、その理性はすべての人に共通する働きをする、と考えなければ、人間が理解を共有しあえる(違うコップをコップという呼び名で呼び合える)ことは説明がつかなくなる。このようにして、理性の存在は明確に証明される。そしてこの理性は人間であれば、すべての人に共通する普遍的な能力だと説明できるのだ。

これをさらに押し進めて、人間は経験の有無によらず、すべてのものごとを理性で理解できる、世界は理性が理解したいように存在している、という極端な思想も登場したが(純粋な意味での「観念論」)、今日ではそこまで理性の役割は大きいとは見なされていない。経験と生まれつき持っている理性の力の相互作用として、認識、つまり理解ができると考えられている。

いずれにせよ、重要なのは、人間がものごとを理解するためには(あるものごとを、判断するには)、すべての人が共通して持っている理性の力が不可欠であり、その理性を活用することを、合理的、と表現する。このようにみてくると、原発やエネルギーなどについての判断を、合理的に行う訓練を積んだ人が合理的に行えば、同じ結論になる、という考え方が出てくる。これがドイツが、原発問題を考えるときに「倫理委員会」を作り、原発の専門家抜きに議論をすることで、よい結論がでると考えた、背景にある。

こういった一連の思想がドイツの行動の背景にある。哲学的な理解の共有が、国民全体になされてなければ、倫理委員会という方法でものごとを決めることは、難しいといえるだろう。